
この写真は鞍馬行き電車が宝ヶ池に到着する前です。デナ21+22と思われますが、出町柳側デナ22のポールだけが上げられており、デナ21は母線引き通しから電気をもらっていると思われます。

これは二軒茶屋〜市原間で鞍馬行き電車のバックショットです。番号はわかりませんが、一つ前のコマでこの電車を撮っており鞍馬側が126号のようです。この編成では2両ともポールを上げています。
この写真から推察すると、鞍馬行きの電車は宝ヶ池〜二軒茶屋間のどこかの駅で、鞍馬側車輛のポールを上げる作業をしていたということのようです。勾配がきつくなるのは二軒茶屋から鞍馬への区間ですが、集電容量を増やすため2本ともあげていたのでしょうか。車掌は二人乗務していたのか、一人で前側車輛のポールを上げに行っていたのか。いや、車掌のポール操作なしで走るのは、はずれたとき危険なような気がします。よく見ると1両目の車掌らしき人が見えますね。
同じような勾配区間をポールで走っていた京阪京津線では、2両連結の後部側だけのポールで運行していました。
こんな昔のことご存じの方は少ないかと思いますが、叡電について詳しい方のコメントいただけたらありがたいです。
ポール時代の叡電ですが、多客時は前後の車両ともポールを上げてました。たぶん単線区間になる岩倉駅か行き違いの出来る二軒茶屋駅で、上り列車の離合待ちの時間に操作していたのだと思います。
火祭りや紅葉狩りの最混雑時は、出町柳から2本ポールを上げる日もあったようで、一乗寺や修学院の平坦なところでも2本とも上げているのを何度か見ています。
当時小中学生だった私は、「ダブルポールの電車が来た。」と叫んでいた(笑)記憶があります。
また、連結車は貫通路のあるデナ500型以外は、2両とも車掌さんが乗務してました。部内では「センター車掌・エンド車掌」と呼んでいたと思います。
2本ポールは京阪京津線の中古(?)のスライダー式ポールに取り替えた時、(1970〜71年ごろ?)「集電性能があがって鞍馬まで一本ポールで走れるようになった。」と聞いたことがあります。実際私が写真を取り出すようになった、73、74年頃はすべて一本ポールでした。
ヤマさまの写真はすでにスライダー式に変わっているようにも見えますが、過渡期で2本ポールを使っていたのでしょうか?
失礼ながら2枚目の二軒茶屋−市原の写真は、市原−二ノ瀬間の、「もみじのトンネル」の森へ入っていく手前の付近ではないでしょうか?
写真は片ポールに見えますが、市原までは、戦前の複線時代の名残で、両側ポールの架線柱の片側のみトロリー線を貼っていたと思いますので。